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橋本努 学部講義 B6レポート 学問論no.1.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

文学部 1年 05990150 岡崎裕剛

  

   p13−14の[相互具鈍化に注意]の項目で、学生たちが自分が如何に愚鈍であるかや、自分が如何にやる気がないかを自慢しているとありますが、これは全くの誤解です。確かに先生たちから見ればそう見えるのかもしれませんが、彼らがそういったことを口にするときは単に話題を振りたいだけであって、そういった話は半分以上口からでまかせをいっていたり、単に友人に合わせてはなすことが多いのです。だから、非難すべきなのはそのやる気のなさの自慢ではなく、彼らの知識の浅はかさやもちねたの少なさです。

   ところで、僕が先生に授業で取り上げてもらいたいことのひとつに、大学生の話題にすることはどんなことか、ということがあります。上記のような、自己のやる気のなさといったようなくだらない(本人にしてみれば楽しいのでしょうが)話題でも友人たちと長時間にわたって会話できるし、教師や知り合いの悪口、または異性の話などでも会話は弾んでいきます。しかし同時に、日本の経済事情や、大学を出たあとの将来の希望、自己の信じる思想などでも熱く語り合うことが可能です。こういうさまざまな、無限ともいえるほどの選択肢の内で、どのような話題が人気があって最もよく取り上げられているか、そして、どのような話題が人気がなく話題として取り上げられにくいかということや、そのような話題はどういった理由でそうなっているのか、ということをぜひ調べてください。

   次に、今週の授業を聞いていて、なんと自分に自信のない人が多いことかと感じました。自己啓発セミナーに行くような人間はもちろんのこと、他の大学に落ちて第一志望と違う北大にきた人や、浪人をした人の中には、今の自分に対する不満でいっぱいの人が多いように感じました。ゼミの人たちとp15−16の[自己否定度チェック]の話をしたとき、このことが裏付けられました。やはり浪人した人たちは自己に自信が持てず、違う自分になりたいという人が半数ほどいましたが、逆に現役生は今の自分に満足しているという人が大半を占めていました。しかし、僕もこのタイプに含まれるのですが、別のタイプの浪人生が存在しています。それは、「自分は苦労し勉強してきた。そして目的を遂げたのだ」と考え、かえって、自分に絶対的な自信をもっているというタイプです。このタイプの人は「勉強期間が長い分自分は現役生よりも賢い」というプラス思考をもっていて、その分自分の努力をかくそうとはしません。同じように現役生のなかにも少数ではあるが別のタイプが全く存在します。それはなし崩してきに大学に受かり、自分が何をしてよいのか全くわからず不安になり、自分に自信がなくなってしまうタイプです。同じ立場の人間にこれほどまでの差を生み出す原因は何なのか。それはやはりその人自身のあり方、考え方といったもののようです。こういったものは生まれつきだったり、育ちだったり、人間関係によって決定されるものではあるのですが、僕は自分に自信が持てなくなったら最後だと考えています。

 

  教育学部 1年 07990004 井坂泉

  

  「一年で卒業証書を与えよう」に大賛成だ。今は「大卒という資格がほしい」「とりあえず大学生はひまばかりだから楽」とか学問にほど遠い学生ばかりだ。そんな学生の一人として私が思うことは、大学名はブランドということだ。ブランド名がプリントされていれば、どんなデザインでも、どんな質でも日本人は高く買う。北大生だ、もしくは北大卒だ、というだけで中身がどんなものでも高く評価される。こういう価値観がなくならないのなら、一年で操業させるのが良いと思う。しかしやる気のない学生が本当に1年で卒業していくかは新たに問題になるだろう。社会では、1年卒と、4年卒との間に今の高卒と大卒との差のようなものを気づかれる可能性が高い。その差のせいで「やっぱり楽して4年卒というブランドがほしい」と学生は思い、大学の中にやる気のない空気が漂ってしまう。この策を実行し、効果を得るには社会を大きくかえなければならない。中途半端に実行するなら逆にしないほうが良い。新しい案として「大学と社会のギャップを小さくしよう」というのをあげたい。大学と社会には大きなギャップがある。大学までは学歴がすべてだったが、社会では官僚などでない限り学歴がすべてとはいえない。大学では時間的ゆとりがたっぷりあり、いろいろ経験できるが、社会では仕事が急がしすぎて旅行もできない。大学・社会の良いところを互いに真似して新しい関係を気づいたら、学問ももっと発展し、みんなやる気を持ち、日本全体がよくなるだろう。こうなるために自分ができることはなんだろう。政治家が何かしてくれるまで待つべきだろうか。自分が首相になるのが一番だが、一般人としてできること。責任感を持つこと。サボるという考え方はやめること。いったい何をしたら良いのか全くわからないが、社会が大学化する、大学が社会化するのは良いことだと思う。

 

  文学部1年 竹本 俊弘

  

  この前に出すレポートに、これめでに読んだ本50冊を挙げ、これから読みたい本20冊を宣言せよというコーナーがありましたが、あの後大変恥ずかしい思いをしたので(少なくとも自分ではそう思っている)、19日の授業内容とも絡め、稚拙な文章を書いたことを反省しました、とうのは私はクラスをまとめる仮総代という役についているのですが、我が文学部3組はその仮総代が7人もいます。(元気の良い証拠)全学部の仮総代が集まる会議が終了してから、クラス写真の撮影と、クラス名簿の作成について話し合おうと、その7人とその場にいたクラスの子1人の計8人で、そのうちの1人の家に行きました。まず驚いたのは、この4月に始まったばかりの一人暮らしだというのに、書架にある本の多さ、本人曰く、全て実家から持ってきたそうです。当然そこから文学談義が始まりました。私は数少ない知識で話について行こうとしましたが、かないませんでした。大変動揺し、落胆しました。普段は流行に身を固めている彼、彼女らにこんな凄い一面があったとは…

  高校の頃、行事の多い長野県の高校で、生徒会副会長と山岳部長を兼任していましたが、勉強でも上を目指そうと、山に向かう列車の中やテントの中、生徒会の会議の休み時間や時には会議中に、周りがおしゃべりや自己主張をするのを尻目に、一人で参考書を見ることがよくありました。当然読書文字間の無駄だと思っていました。勉強は好きでしたが、先輩や後輩が読書をしたり、本について話しているのに関わりつつも、「そんなことした所で大学には入れない」と思っていました。

 

  文学部1年 原谷 友香

  

  「若き日にバラを摘め」という言葉を読んで私は、今まで私はいったい何本のバラを摘んできたのだろうかと思った。思い当たるのは辛かった受験勉強と、あとは…思い浮かばない。自分は今までその程度の苦労しかしてこなかったのかと思い知らされた。

  多分知らないうちにバラをいくつも摘んだのだろうとは思うが、今の私はどういった事で、”;バラを摘む”;事が出来るのだろうか。実家を離れ、初めての一人暮らしを経験し、また大学生活という新しい社会の中で、孤独感を感じたり戸惑いを感じたりしている自分を乗り越えて、その孤独感や戸惑いを振り払うことが出来たら、その時自分はバラを摘み、その傷は癒されるのだろうと思う。

  「若き時にバラを摘め」という言葉は、日本で言う「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉と同じだが、これは、大人になった時に苦労を知って逞しい自分になれているようにする準備だと思うので、これからも面倒なことや困難なこと絡めをそらさずにそれに立ち向かって、なるべくたくさんのバラを摘むことが出来たらいいと思う。

 

  文学部1年 菅田 陽子

  

  大学って今までの学校とは別物だと思いました。今まで学校では”;勉強”;をしてきた人多いと思います。けれども大学は”;学問”;する場所だと思います。自分で自分の探求心を持っていかなくては何にもならないまま4年間を過してしまいます。勿論、ただ学問ばかりではなく人間関係も大切だと思います。大学という言葉のように私たちが今いるところは多くのことを学ぶ場なのです。現在、私もまだ若い時から、大学というもに憧れて勉強してきて辛かったです、本当に。しかし、いざ入学してみると自分のやりたいこと曖昧なまま、ぼんやりしていてよく分からない。右も左もわからず、あわただしく過しています。大学に入ることに夢中でその先のことを考えてはいなかったような気がします。何かを探し続ければ、きっと自分の中に光るものを発見出来ると思います(と信じたい。)先日も新聞で”;北大生の3人に1人が休学したい”;という記事を見つけてショックを受けました。”;自分が憧れて入った大学の実態はこんな風なんだ…”;と。けれども高校の時教育実習に北大生の女性の方がきた時その方からは”;この人は本当にこの学問が好きなんだ”;という印象を受けました。”;自分もこの人みたくなってみたい!”;素直にそう思えました。学問するのってそういう事です。自分が好きで出来ること、そのことが楽しくて仕方ないこと、一生続けたいこと、そしてそれは決して大学での講義に限ったことではないことでしょう。後はすねをかじれる親のいる人はうらやましいですね。私は自分を担保にするしかないです。(笑)

 

  文学部1年 八ツ橋 綾子

  

  43p<知的恥じらいを大切にしよう>について

  私は、受験時代に徹底的に勉強以外の外部からの情報を遮断したので、当時の社会の状況等は分からない。というか、それ以前も知らなかった。それが大学にはってからは「とんでもない生活をしていたもんだ」と自分自身に呆れ、焦るようになった。私が住んでいる国の経済、政治、文化、そして世界各地で起こっている重要な事件について、「知っておくべきだ」「知らなければならない」という意識が急に強くなった。大学生になったのだからもう「興味がないから」と逃げ回っているわけにはいかない、一発発起して新聞を開いた時に、ある程度の知識がなければ理解出来ないということに気づいたからである。今でもあまり分かっているとはいえない。だが知識を得れば得るほど更に知らなければいけないことが出て来るようになり、こうして知識を追いかけていくことが自分の頭で考える時に土台となるのではないかと思う。というよりも、知識がなければ考えることも出来ないのかもしれない。「考える事は整理することだ」というような言葉を、絵本作家の五味太郎も書いていたような気がする。

 

  経済1年 楢崎 紗恵

  

  41pの「学問と勉強の区別」で、学問と勉強が、ある目的の手段として知識を詰め込むことであるか、そうでないのかで区別されるというのは、それだけではないと思う。どちらかといえば学問に主体を置いて、”;物事についての問題を作ることが出来るかどうか”;だと思う。問題を創造する、物事について問題意識を持つ。この事が学問をする第一歩だと思う。そして、勉強も学問のワクの中に入れて考えることが出来ると思う。何かについて問題意識を持ち、それについて答えを見つけよう、答えに近づこうとすると、必ず知識が必要になる。問題を思索する時点で、知識を成長させてはいるが、その知識を継続させる為、知識を増やす為に勉強は必要だと思う。それは少なからず学問の基礎になりえると思う。また、勉強は知識を詰め込むだけではない。”;経験”;によって得られる精神的、肉体的な能力を引き出し、育むことが出来ると思う。

  物事について問題を作ることというのは、普段の日常生活でも十分に出来ると思う。学問の基本は大学でなくても出来るのだ。広い意味で問題を作り、それを発展させることが学問であると思う。そして、マルクスや、カントだけをかたく考えるのではなく、柔軟性をもって幅広い部分で学問をしていくことが大切だと思う。

 

  文学部1年 斉藤 摩耶

  

  学知と実践知について私なりに考えてみた。人間は学知だけあっても経験的に理解出来なければ、つまり実践にそれを応用出来なければ、学知はあまり有益でないかもしれない。ただ、実践知だけでも、本当に「知っている」ことにはならないだろう。学知と実践知の両方がバランスよく備わって始めて人は何事かを「知っている」ことになり、それを何かに役立てることが出来るようになる。それが真の意味での「知」なのかもしれない。しかし12歳の百姓の息子と18歳のアカデミーの学生の話に限って考えると、一概に沿うとも言えないのではないかと思えて来る。12歳の百姓の息子にとっては、テコが何たるかということより労働の能率を上げてくれるテコをいかに上手く使えるか、ということの方が人生において大切な知識であり、彼はそれを身につけている。テコの原理を知っていたところで、使い方を知らなければ、仕事は出来ない。一方、18歳の学生は、テコの原理を知って、そこから様々な分野にそれを応用し、発展させることが出来る。使い方を知らなくても、百姓の息子とは違う方法でテコを有益な物にすることが出来るし、彼にとってはそれが人生において大切であるかもしれないのだ。それなら、学知と実践知のどちらが重要か。それは考えること自体無駄である。百姓の息子にとっては、実践知がすべてであるし、重要であり、学生にとっては、…?

 

  文学部1年 藤井 哲之進

  

  我々のグループは、放送局や新聞社をまわるが、なかなかアポイントが取れず苦労した。ローカルのFM局に番組を持っている友人の紹介を得ようとしても出来ず、大学の先生からの紹介でようやくアポイントを取ることが出来た。こうしてみると、メディア界というのは、何だか狭い世界なのではないかと思えて来る。

  昨日、「人間と場所」の講演に行ってみた。橋本先生の話はとても面白かったが、疑問も生じた。CMや流行語、世相で我々人間は捉えることが出来るのだろうかという疑問である。自分は決して「透明な存在」であるとは思ってないし、「未成年の喫煙」「異性との外泊」などには抵抗感を感じており、統計の結果にはあまり納得がいかない。統計の結果には、「ああ今の世の中はこうなっているのか」と感じることはあってもその世の中に自分も居るのだという実感が湧かない。「表面だけの友人付き会い」が多いというが、周囲を見ると、仲のよい友達を持っている人は多いのではないか。いったい、何を持って「濃密な友人関係」というのか、その様なものが果たして昔には数多く存在したのだろうか。自然科学において少数派の意見を持つ人間が果たして「誤差の範囲」で済まされるのだろうか。統計のデータは何を表すのか疑問である。

  一見無意味だと思われる学問に国が研究費を出すということはその国の「文化の成熟さ」をもたらすのに有効かもしれない。実益ばかりもたらすところに、果たして文化は存在するのだろうか。無駄とも思えるものを受け入れる寛容さこそが文化を生み出すのではないのだろうか。

 

  法学部1年 伊藤 文哉

  

  僕は法学部なので六法を買わされた。六法の中には入らないが、教育基本法や学校教育法なども掲載されている。教育基本法なんてたいそうな名前がついているからどんな立派な法律かと思っていたら、短い、短い。全11条しかない。第1条には教育の目的に「人格の完成」とある。果たしてこの教育の目的は達成されているのかどうか。もう一方の学校教育法は教育基本法に比べてずっと長い。第52条に大学の目的として「大学は学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」とある。引っかかるのは「道徳的」の部分である。テキストの「大学で学問する方法」によると、大学の教授は、ある人間の人格がどうであろうと、学問の出来如何で評価をつける。ここに道徳の入り込む隙間は存在しない。法律の方が無茶を書いているのか、それとも大学側の努力不足か。でもそれが不可能に近いのも確かだ。

  大学は社会に役立つ機関であるべきか。そんな議論が出た。でも前述の学校教育法第52条を見ると、あまり社会に貢献出来そうにない。一橋大学の教授はソニーの重役になるならないとニュースで言っているけれども、強いて言えば応用的能力の発展に少し当てはまるくらいだ。あまり大学の目的と適合しない。等と法律を引き合いに出して考えてみた。警察官職務執行法等は読んでみると面白い。守られていないから。

  それにしても大学に目的を持って入学して来る学生がどれだけいるのだろうか。最近は大学への進学率が随分高くなった。つまり、周囲はみんな進学という状況だ。それに流されて進学を選んだ人も多いだろう。僕は目的というものいいものではないが、法曹界や法律界に疑問を持って入学した。まあその内容に関してはここでは言及しないでおくとして、それが見つかったのは法学部に入ろうと思った後のことで、新聞や雑誌を読んで生じたものだ。だから僕の場合、やりたいことがあるからある学部を選ぶ、という理想的な入学の動機ではなく、とりあえず、方針を決定したら興味が出てきた、というちょいと邪道なものである。それでも目的みたいなものがある分いいと思っている。

  今までの話とも、また授業の話とも関係ないが、偏差値の高い学校というのはそれなりにメリットがあると思う。東大などは、全国から(少なくとも勉強に関しては)優秀な人材が集まる。その人たちと会話が出来るだけでも役に立つ経験だと思う。北大もいろんな人がいて面白い。

 

  文学部1年 藤井 哲之進

  

  浪人から満て、現役生が「子供」にみえてしまうのは面白い。1、2歳しか離れていないのにそう思えてしまうのはどうしてだろうか。それは、俗に言われる「浪人は自分のことを考える時間があるから」自分を知ることが出来るようになるからではなくて、やはり、1年間、自分の進路への不安と辛さを乗り越えてきたからだろうか。自分は浪人して入ってきたが、浪人中はそんな風に現役生が「子供」だとは思っていなかったが、大学に来てからそう思えてしまった。

  「勉強したいという気持ちがありながら勉強したくない」という気持ちに最近なっているが、これは5月病なのだろうか。「部活で忙しいから」「友達付きあいがあるから」勉強できないというのは言い訳のような気がする。浪人中はあれほど毎日一生懸命勉強してきた筈なのに、どうしてこんなにだらけてしまったのか、浪人時代の反動からなのだろうか。「現役生の方がよく勉強する」という話は本当のように思えてきた。

  大学生活は予想以上に忙しい。よく「大学生活は人生の夏休みだ」といっている友人もいるが、授業だ、部活だでアッという真に1日が終わってしまう。大学生活は暇なのではない、暇にするのではないか。これから先、バイトを入れたいと思っているが、果たしてやって行けるだけの余裕が出て来るのだろうか。時間は有効に使わなければならないのは重々承知だが、一体、すでにバイトをしている1年生はどんな風に時間配分をしているのか聞いて欲しい。

 

  法学部1年 杉本 諭人

  

  先生の意見を読んで、まず「相互愚鈍化に注意」を読んで、多少ドッキとした。言われてみると確かに自分は周りの人に自分の「やる気の無さ」を自慢しているって程ではないが、それに近い感情はある。今思えば馬鹿なことをしたと思うが、それが、大学に入ってからも続いている。いや、むしろ強くなった気がする。だがこの授業のおかげで、まだ大学に入って間もない時期に悟ってよかった。これから授業をさぼること、勉強をしないことがどれほど情けないかを考えて大学生活を過したい。

  僕は浪人生だけどみんなと少し違って、現役で別の大学の文学部に入った。そして1学期をその大学で通ったが、別にやりたいこと(法学)が見つかり9月から勉強し直して北大に入った。だから、人一倍努力した。でも受け直してよかったと思う。現役の時は、ただ大学に入ることしか頭になかったが、大学、浪人生活と通して、将来のことも考えるようになった。したがってこの1年間は無駄ではなかったと思う。ただ浪人生の方が優れているとは思わないと思う。浪人の時に学のは試験でいい点を取るテクニックみたいなものがほとんどであり、更に今度は失敗できないという不安からただひたすら勉強していたような気がする。だからさほど現役生との差はないと思う。1年遅れてしまったという「焦り」もそれ程ないと思う。あるとすれば今年で10代が終わるという辛さかな(笑)

  今、いろんな悩みがあります。部に入るかどうか。バイト、恋愛等について。先生、また一杯やりながらお互いの熱く煮えたぎる思いを語り合いましょう。今度、直接先生のところへ「先生、飲みに行こう」と誘うかもしれません。断らないでくださいね。

 

 

  今日の議論の仕方は面白かった。自分がいざ壇上に上がるとちゃんとした意見が言えるかどうかは不安だけど、でも今日に人達はちゃんと自分の意見が言えたように思える。今日の資料の中で私が特に興味深かったトピックは、「議論する女は持てないか」というものだ。私は今、学生会館に住んでいて、ここには女子が少なく男子が多い。私は、女子だが男子に混ざって言いたいことをずけずけといっている。「議論する女は持てない」と、私は思う。極めて主観的になってしまうが、私は言われてしまった。「君は女として見えない」と。つまり、生意気にずけずけと物を言っている女は可愛い、というか可憐には見えないんだと思う。そう思うような男なんて眼中にないとか、そう思われるのは私の人柄だとか、色々と考え方はあるけれど、私の中では女の子とはおとなしいのが可愛くて、そしてもてる気がする。かといって、私はそのおとなしくて可愛い女の子になれるとは思わない。きっとこれからも誰に生意気と思われても私は、私の生き方しか出来ない。願わくば、こんなシャベル女を、いい女としてみてくれる男が現れますように。

 

  法学部1年 高田 幸尚

  

  37pの<「学知」と「実践知」の関係について自分なりの見解を作ろう>というところが面白かった。この問題は上手くいけば1日中議論しても飽きないようなものだと思う。自分の意見をここで少し書く。18歳の人が学ぶ「テコ」は知識として、つまり頭の中の世界で存在するものであり、12才が知っている「テコ」は実世界のものである。知識としてのテコというものは実体験からきたテコを昔の人が伝えた結果だと思う。科学の世界でもなんでも12歳の子供が知るテコを積み重ねて成り立っているのであってそれはどちらもテコには違いないと思う。ただ、18歳の人が知っているテコの方が洗練され、より詳しく研究、消化されてきた物だろうから応用の範囲も12歳の子供のテコとは比較にならないほど広い物だろう。この18歳の人のテコのような、頭で覚えた知識は、先人の実体験があってこそ存在するということを忘れずにいることは大切なことだと思う。ぎゃくに、18歳のがわの知識を得ていけば人が一生で得られる知識の量は昔の人と比べて何倍にも、何十倍にもすることが各人の努力で可能になると思う。